近年、技術の発展によりさまざまな出来事は説明できるようになってきました。
それにより、説明が十分でないものには手を出さないようになってきていると思います。
そして、十分な説明や判断をするために重視されていることが論理的、合理的であるかどうかです。
しかし、私は合理的、論理的なことはもちろん大事だが、限界もあるように感じています。
現代人に多く見られる、論理的、合理的を重視しすぎる判断方法に警鐘を鳴らしたく、今回の記事を書きます。
合理的の限界 人間は合理的でない
みなさんも、
言っていることはわかるけどムカつく
やった方が良いことはわかるけどやりたくない
このような経験はあると思います。
それはつまり、人間はいつも合理的な判断をするわけではないということです。
そして、大抵自分が考えたもの、企画やプレゼンの案などには人の評価が関係してきます。
そのため、いくら合理的なことを言っても、その人から嫌な感じがしたら良い評価を少し受けずらくなってしまうこともあると思います。
このように、いくら合理的でもたくさん考えられるその他の要素でその話は受け入れられなくなってしますのです。
合理的な判断や説明をしつつも、相手が合理的に判断する機械ではなく人間であることを理解し、
感情などの他の要素にもしっかり気を配り、
時には合理性も犠牲にする必要があるということです。
論理的の限界 細かい要素を考慮できていない
現在、論理的な話を非常に重視する傾向にあります。
確かに、論理的でないと説得力もないし、
論理的であれば、ある程度入っていることが正しいように思います。
しかし、論理的であるからといって完全に正しいわけではありません。
その理由は、論理的な話の構造にあります。
論理的な話は、その話に関連する要素を分解しそれを組み立てることによって構成されています。
しかし、人間は大量の情報を瞬時に処理できないため、そこまで大事そうでない小さい要素は
組み立てる際に省いて組み立ててしまいます。
そうしないと、みんなにとってわかりやすい説明ができないし
そもそも、自分が結論を出すことが難しいからです。
そのため、論理的な説明というのは
ある物事を分解し、その中で重要そうな要素だけを選び組み立て、
細かな要素は無視されています。
そのため、その細かな要素が結果に影響を与えることもあり、
完全に正しい結論や判断を道いき出せるわけではないのです。
もちろん、論理的な思考は重要ですが、
それを盲信してもいけないということです。
まとめ
これらのことから、合理的な判断や説明は
相手が人間であるから感情で動くこともあるため、他の要素のためには捨てなければいけないこともあること
論理的な思考や説明、判断も
論理的だと多くの人が判断できている時点で、その説明には細かい要素が抜け落ちていること
などの限界があります。
もちろん、論理的、合理的であることは重要ですが、
近年蔑ろにされがちな、感情や経験に基づく判断も重要であるということです。
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